2011年11月25日金曜日

読んで!

私は書くのが大好きです。。これは私の書いたものの一つです。日本に来てから、気がついたことの一つに関して書いてあります。。興味があったら、読んでください!! ちょっと長いけど。。。



誰の歴史ですか?
 
 歴史から勉強する必要があるとよく言われる。歴史を学ぶ目的は様々あるが、その一つはもっと良い将来を作ることが出来るようにするということだ。歴史から勉強することを通して、前より、もっと良いことをすることが出来るだろう。その為に、客観的に歴史を書く必要があると思う。しかし、歴史を書く時、どうしても主観が入ってしまうと思うが、どうすれば客観的に書けるのかを考えてみたいと思う。
 私が日本に来てから、気がついたことは様々あるが、そのうちの一つが「日本がインドネシアを支配したこと」に関する歴史の書き方である。インドネシアにも日本にもそれぞれの書き方がある。インドネシアの独立歴史の中で、日本は三年間ぐらい(1942-1945)インドネシアを支配したことがある。日本人は「日本はアジアの光であり、指導者であり、保護者である」というモットーで、すべてのアジアを支配したがっていて、インドネシアにも行った。そのモットーを見ると、日本人がインドネシアに行ったのはとても良い目的なのではないだろうか。
 日本人がインドネシアに着く前に、インドネシアはオランダに支配されていた。それは三百五十年間ぐらいだった。だから、日本人がインドネシアに着いたばかりの頃、インドネシア人は喜んで日本人を受けて入れてあげた。なぜなら、日本は同じアジアで、しかも、日本がアジアの光、指導者、保護者、というモットーがあるので、インドネシア人は日本人が来たのはインドネシア人と一緒にオランダ人を追い出すためだと考えたからである。
 しかし、実際に酷いことばかりがあったようだ。「労務者」と言い、それは日本人に空港や軍事防衛(ぐんじぼうえい)道路(どうろく)建設(けんせつ)したり、働いたりするように強制された人達のことである。日本人がインドネシアにいた時に、「労務者」になった人は非常に多かったようだ。その時、インドネシア人は苦し、日常生活が出来ないくらいだった。そして、インドネシア人はオランダ人に支配された三百五十年より、日本人に支配された三年の方が苦しんだとインドネシアの歴史の中に書いてある。
 日本の歴史の中で、どのような書き方があるだろうか。私が聞いたのは日本人がインドネシアに行ったのは「支配」する為ではなく、インドネシア人を「教育」する為に行ったようだ。それは本当かどうかまだ分からなく、そして、どちらが正しいか、私にも分からない。既に述べた通り、日本人のモットーを見ると、教育的な面が入っているが、それは事実とは矛盾なのではないだろうか。
 その書き方の違いに関して考えてみると、やはり歴史というのは主観的になりがちだ。歴史の書き方は国によって違う。日本には日本なりの書き方があり、インドネシアにはインドネシアなりの書き方がある。何故、主観的にしか書けないかというと、下記の二つの理由があると思う。一つは歴史的事実を見付けにくいからだ。歴史を書く時、歴史の証人がいないと、事実を見付けることは難しくなるだろう。その時、歴史を書く人は分かっている事実だけではなく、歴史を書き、自分の意見や解釈(かいしゃく)を書いてしまうかもしれない。そこで、歴史は主観的になる可能性がある。もう一つは昔の悪事(あくじ)を忘れたり隠したりしたいからだ。つまり、善行(ぜんこう)だけを認め、書くという事だ。この理由についてもっと説明したいと思う。
 確かに、昔の悪事を忘れたり隠したりするのは人間にありがちなことだ。人間は誰でも、自分の悪事を忘れ、自分の善行だけを認めがちだ。しかし、歴史の場合にはそれはしてはいけないことだ。何故なら、歴史というのは昔の事実だからだ。その歴史を書く人の意見や解釈や願望ではない。歴史を書くのは「誰がその歴史を書くか」という問題ではなく、「何が起こったか」という問題だ。歴史は誰にも(ぞく)していない。誰がその歴史を書くかという風に考えると、主観的になってしまうのは否定できないことだ。つまり、歴史を書く時に、何かが起こった通り、書くべきだというわけだ。
 インドネシアと日本の歴史の場合はどうしてそのような書き方があるのか、次の二つの仮定だけを提起する事が出来ると思う。一つはもし、「日本が本当にインドネシアを支配した」という視点の方が正しかったら、多分、日本は酷いことを忘れたいという理由で、そのように書くことになった。他の言葉で言えば、日本は戦争後の時代にその酷いことを知られないように、本当じゃないことを書いた。
もう一つはもし、「日本がインドネシアを教育する為に行った」という始点の方が正しかったら、多分、問題なのは「教育する」に関する理解という問題かもしれない。それはどんな立場から見るかによって変わると思う。例えば、昔は暴力を使って教育するのは普通だった。この視点から見ると、どんな大きな悪事でも、インドネシアを進歩する限り、「教育」と言える。一方で、現在の視点から見ると、たとえどんな場合でも、教育する時、暴力を使ってはいけないということだ。けれど、この視点から見ると、歴史の事実を判断したり、評価したりしてしまうので、使ってはいけない。なぜなら、歴史を書く時、判断したり、評価したりしず、起こった通り書くことからた。
以上の二つの仮定から、一番目の仮定が正しかったら、インドネシアの書き方は正しいが、二番目の仮定が正しかったら、日本の書き方の方が正しく、客観的かもしれない。
 この問題を解決する為に、同じ理解や書き方を得られるように、共同でその歴史を書くべきだ。そうすると、客観的に書くことが出来ると思う。そして、本当の歴史から学ぶことができるようになるだろう。

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